開発秘話
駅や商業施設、マンションなどの階段・通路などに使用する、遠心力応用PC(プレキャスト)コンクリートの階段ブロックや平板ブロック。
特許技術によって生み出された、その開発秘話に迫ります。
「東京駅の階段を2日ほどで工事できないか」
戦後の現場から生まれた、今もなお進化する“日本の階段”
第二次大戦後、高度成長期に入った日本は建設ラッシュに沸いていた。
早く建てろ、早く作れ。土木建築にかかわる国中の業者はうれしい悲鳴を挙げていた。昭和15年に創業し、コンクリート二次製品の開発を手掛けていた関東コンクリート工業もそのうちの一社であった。
昭和30年、当時の国鉄から「PC(プレキャストコンクリート:工場で製造された既製品)で駅の階段をつくってほしい」という依頼が入る。目玉は、戦後になって拡張工事を再開していた東京駅。驚いたのはその工期で、「夜間に工事を行い、朝には人が歩けるようにしてほしい」という話であった。すでに昼夜問わず大勢の人が利用するターミナル駅であった東京駅。長期にわたって階段をふさぐことは事実上不可能、本来であれば1カ月かかる工事をわずか2日で仕上げなければいけなくなった。
初代社長・野中菊示を含む当時のメンバーは、国鉄技術者と共に考えた。
ターミナル駅での利用に耐えうる十二分な強度を持ち、かつ短時間で工事を終えられるコンクリート製の階段。たどり着いたのは、創業当初からの主力商品であったコンクリート水栓柱。工場で製造し、現場では設置するだけというその施工手法を応用し、コンクリート製の階段をスピーディーに施工する方法を編み出したのだった。
山手線田町駅
施工 昭和29年5月
撮影 昭和34年10月
弊社製品の初の施工で、乗降者数は山手線で最も多く、既に15年も経ておりますが、今後更に10年程の耐久があると思われます。
現在表面が研ぎ出されたように美しくなり、且つ滑りにくくなり歩きやすくなっています。
そして強度の問題。これも水栓柱の技術を生かし、実験に実験を重ねる。
確かなコンクリート製品をつくることにかけては誰よりもプライドを持っていた関東コンクリート工業の社員たち。そして、そんな社員たちに裁量を与え、積極的に開発に関わることをよしとしていた社長。技術、情熱、そして自由な風土がそろった現場に、不可能という言葉はなかった。日頃から製品をつくるための製造機械まで自作してしまう彼らは、今回の階段製造においても遠心形成機を開発したのだった。
こうして昭和30年、摩耗に強いコンクリートを生み出す遠心力工法を取り入れた、独自の製造手法が誕生した。のちにその技術は特許を取得することになる。当初は疑いの目を向けられた工法とその製品強度の高さは、今もなお使われる各駅の階段を見ればおわかりいただけるであろう。
選ばれ続けたPC階段ブロック。
より使いやすく、よりやさしい製品へ
PC階段ブロックにはすぐさま注文が殺到。国鉄のみならず、評判を聞きつけた私鉄からも注文が相次いだ。当時の主力製品であった水栓柱をはるかに上回る売上を出し、会社は拡大。当時あった工場では生産が間に合わず、拡大移転を繰り返した。「強度の高いコンクリート製階段を短時間で施工できる」という会社は他には存在せず、関東コンクリート工業の独壇場が続く。
顧客の声や時代の流れを採り入れ、改良を重ねた。美観を求める声に応えて天然石を貼ったり、デザインや風合いのバリエーションを増やしたり。高齢者や身体障害者に配慮した建築物の建築をすすめる「ハートビル法」に対応した、階段の縁だけ素材を変える製品も開発した。目の不自由な人でも足先で段差がわかるという段鼻仕様の製品を日本で最初に生み出したのは関東コンクリ―ト工業であった。
取引先が中国製を選択。
関東コンクリート工業にせまる危機
要望に誠実に応える企業姿勢を貫いてきた関東コンクリート工業にも、危機が訪れる。
社長は3代目となっていた2011年、当時の民主党政権が公共事業削減を打ち出し、多くの企業がコストの安い海外での製造に目を向けた。古くから付き合いのあった建設会社も、階段の発注を中国製品へと切り替えていった。目に見えて売り上げが落ちて行った。
当時は、それまで「安かろう悪かろう」と言われていた中国の品質が徐々に安定しつつあった時期。実際に手に取ったテスト版の中国製品は信頼に値するものであった。
「中国で、あの安さでここまでの製品がつくれるのか」。
それまで材料も製造工程も一切の妥協を許さず、揺らぐことがなかった関東コンクリート工業に焦りと迷いが生まれた。
一度、コストを抑えるために中国製の安い材料を使おうと、社長直々に工場長にお願いをしたことがあった。工場長の返答は「それはだめだよ。安いけど不確かな材料に走ると必ずしっぺ返しを食らう。初代がいつも言っていたこと」経営状況や中国の躍進といった危機的状況を何度訴えても、工場長が首を縦に振ることはなかった。
二点支持式階段ブロック例(施工中)
国鉄東北本線小金井駅
(昭和43年1月施工)
スパン 3,000mm
質のいい中国製品を扱う他業者が存在したが、質が高かったのはテスト版のみ。正式発注後の品は見るも無残なものだった。値段は安いが、仕上がりが悪く、欠陥商品とも呼べるほど。テスト版だけ質を高め、量産時には極端に手を抜くという、とんでもない仕事をしていた。注文を中国製に切り替えた建設会社は、ほどなくして関東コンクリート工業に戻ってきた。
「どんなに安い製品が出ても追随してはならない。材料を妥協してはならない。そのときに考えられる最高のもの提供しなければ、結局自分に返ってくる。」
これまでもこれからも変わらない、関東コンクリート工業の柱となる初代の遺言がここにある。
変わらない想いで
今日も進化するPC階段ブロック
今や、関東の鉄道会社のほとんどが関東コンクリート工業のPC階段ブロックや各種製品を導入している。
2011年、東日本大震災後にこんなことがあった。
地震の衝撃で階段の最上段がすっぽりと抜け落ちてしまった茨城県の某駅。「なんとかしてくれ」との声に駆けつけた。本来なら許されないが、見積もりや工事日の調整といった正規の工程は一切後回し。少しでも早く復旧させたいという現場判断だった。
駅の階段はわずか半日で元通りに。後日、表彰を受け、金一封を受け取った。
ただ、いいものをつくり続ける。
誕生から60年を超える関東コンクリート工業のPC階段ブロックは、定期的な改修を経てなお、今日も人々の足元を支えている。